冬になると、青空家の80代の両親は、食べる量も、飲む量も自然と減ってきます。
寒いから外に出ない。
トイレが近くなるのが嫌だから、水分も控える。
けれど本人たちは、特に困っている様子はありません。
お腹もすかないし、喉もそれほど乾かない。
だから「大丈夫だ」と思っています。
一方で、近くに暮らす50代の息子夫婦は違います。
両親のかかりつけ医から「もっと食べて、しっかり水分を」と言われたことが、ずっと頭から離れません。
心配だから声を掛ける。
何度も伝える。
それでも両親の行動は変わらない。
いつの間にか言葉は、命令口調になり、一時期はお互いの関係がギクシャクしていました。
「どうしてわかってくれないんだろう?」
息子夫婦は、この気持ちを一度脇において見ることにしました。そして、
「どうして食べたり飲んだりすることを控えるのだろう?」
という考え方に切り替えてみました。
発想の切り替えで、若い自分たちには見えなかった高齢の両親の問題が少しずつ見えてきたのです。
「困っていない」という、親の本音
青空家の両親は、息子夫婦が心配しているほど、自分たちの体調を深刻には捉えていません。
寒くなると動くのが億劫になるのは、年齢のせい。
体を動かさなければ、当然お腹もすきにくくなります。
水分を控えるのも、トイレが近くなるのを避けたいから。
本人たちの中では、すべてに理由があります。
「年を取ったら、こんなものだろう」
「若い人ほど、たくさん食べなくて良い」
そう思っているから、無理に変える必要を感じていません。
むしろ、周囲から
「ちゃんと食べて」
「もっと飲まないと」
と言われることのほうが、負担になっていました。
自分なりに考えて生活しているのに、判断力まで否定されたように感じてしまう。
それは、身体だけの問題ではなく、気持ちの問題でもあったのだと思います。
心配するほど、ズレていく気持ち
息子夫婦にとって、両親の様子は「放っておけるもの」ではありませんでした。
かかりつけ医から言われた「もっと食べて、しっかり水分を」
という言葉が、頭に残っています。
医師に注意された以上、家族としてなにかしなければいけない。
見過ごしてはいけない。
そんな責任感が、自然と強くなっていきました。
声を掛ける回数が増える。
言い方も、少しずつ強くなる。

ついこの前も言ったばかりだろ?

先生に「ちゃんとして」って言われてるじゃないですか
心配しているだけなのに、気づけば注意や指示に近い言葉になっていました。
それでも両親の行動は変わりません。
むしろ、距離ができたように感じることさえあります。
「どうしてわかってくれないんだろう」
「こんなに心配しているのに」
その苛立ちは、親を思う気持ちがあるからこそ生まれたものでした。
ただ、その気持ちが強くなればなるほど、
親と子の間にある「前提の違い」が少しずつ広がっていったのです。
「正しさ」が、関係を固くしてしまうとき

息子夫婦の言葉が、いつの間にか命令口調になってしまったのには、理由があります。
それは、「正しい」ことを言っていたからです。
医師の助言。
年齢を考えたときのリスク。
これまでの経験からくる不安。
どれも間違ってはいません。
だからこそ、
「わかっているなら、やってほしい」
「なぜ言う通りにしないのか」
という気持ちが強くなっていきました。
一方で、両親の側には、別の思いがありました。
年令を重ねても、自分の生活は自分できめたい。できることまで取り上げられたくない。
食べる量や飲む量は、その人の生活感覚そのものです。
そこに正しさだけが入り込むと、
「身体を心配されている」よりも「やり方を否定されている」
と感じてしまうことがあります。
誰かを思っての正論が、結果として、相手の心を閉ざしてしまう。
青空家で起きていたのは、そんなすれ違いでした。
「自分でできる」ように整える:自走できたら命令はいらない
青空家で最初に変えたのは、「食べさせ方」「飲ませ方」ではありませんでした。
変えたのは、生活の前提です。
冬の寒さの中で、たくさん作ること、量を増やすことは、親にとっても負担になります。
そこで食事は、一汁一菜にしました。
温かい汁ものを中心に、無理のない量のおかずを一品。
「これだけは食べようかな」と思える形に整えます。
全部食べなくても良い。残しても良い。
そう決めたことで、食卓の空気が少し和らぎました。
水分も、同じ考え方です。
「何ml飲んだか」「何杯まで飲んだか」は数えません。
代わりに、起きたとき・食事のとき・入浴の前後と生活の節目に、温かい飲み物を手渡す。
飲むかどうかは、本人に任せます。
命令しなくても、声を荒げなくても。
生活の中に選択肢を置くだけで、摂取量は少しずつ戻ってきました。
何より変わったのは、息子夫婦自体。
「食べなさい」「飲みなさい」と言わなくなったことです。
親は、管理される存在ではなく、自分で選ぶ存在として扱われるようになりました。
🔗「一汁一菜」に関する記事はこちら👉️
それでも食べない・飲まない日はある
どれだけ工夫をしていても、高齢者には「どうしても食べられない日」「あまり飲めない日」があります。
青空家でも、そういう日はありました。
寒さが厳しい日
夜、あまり眠れなかった翌日
気分が落ち込んでいる日
理由がはっきりしなくても、身体がついてこないことがあります。
以前は、そうした日を「今日はダメだった」「またできなかった」と受け止めていました。
けれど、考え方を少し変えました。
一日単位で判断しない。波があることを前提にする。
食べられなかった日があっても、次の日に少し口にできれば、それで十分。
水分も同じです。
大切なのは、できなかった日を責めないこと。
責められると、本人も家族も疲れてしまいます。
「今日はこんな日なんだな」
そう受け止めることで、次の食事や水分が、また自然に戻ってきます。
まとめ:関係を壊さず、身体を守るという選択
青空家の冬の食事と水分対策は、怠けているからでも、なにか特別なことをしたわけではありません。
食べさせようとしない。
飲ませようとしない。
その代わりに、生活の仕組みを整える。
一汁一菜にすること。
温かさを大切にすること。
そして、水分を生活の中に組み込むこと。
どれも、すぐに真似できる工夫です。
この小さな工夫をコツコツ積み重ねた結果、大きく変わった変化がありました。
それは、親子の関係です。
高齢の親を、管理する対象にしない。
一人の人格として尊重する。
その姿勢が、結果として親の身体を守ることにつながっていきました。
正解は、家庭ごとに違います。
けれど、
「無理をしない形を探す」という視点は、どの家族にも共通しています。
今日の青空家の話が、あなたの家での関わり方を考える一つのヒントになれば、幸いです。
次回は、青空家の息子夫婦が両親に対して実施した取り組みを紹介します。
🔗「青空家の整えごと」続編記事はこちら👉️

コメント